豊島区千早にて、渡辺京二、みうらじゅん、ナンシー関、末井昭、忌野清志郎等。スコアや音楽書をお譲りいただきました!
「信頼できない語り手」という言葉があります。一人称だろうと三人称だろうとその語り手の主観自体がゆがんだり、記憶があいまいだったり。しかしエリアス・カネッティの「眩暈」を読んだ後に思ったことは、そもそも信頼できる語り手などいるのだろうかという問いでした。
去年から、ランニングを週に三回は走っているのですが、走る前は
「よし、ちょっとぽっちゃりしてきたから減量だ!(※あくまでも減量と言い張る。ダイエットより責めている感じが出るため)5kg痩せるぞ!」
と思っていても、走って3分もすればそんなことも忘れている!!!「人間(というかわたしだけかもしれませんが)は3分でずれる!」と慄然としたのを覚えてます。
群衆と権力、死と変身という偉大なテーマをかかげる今世紀屈指の文学者・思想家という帯がまかれていますが、テーマがなんであろうと、実際カネッティ自身がこれがテーマと言ったかは知りませんが、そんなこと関係なしにこの本は面白いです。
あらすじを思い出す限り書くと、主人公キーンは無類に本を愛し、人間嫌いで学会にも一度も顔を出さない中国文化の研究者だ、ある日蔵書の本を整理するために家政婦テレーゼを雇うが・・・・。
あらすじやテーマがどうだったかなどはどうでもよく、この本の中の登場人物はとにかく油断ならず、数ページ後にはまるで違うことを言ったり話したり・・・。なんの話をしているのかと思ったら横滑りしていく思考であったり、夢想であったり。一貫性というのがまるでなく、グラグラとリアリティが変化しながら話は進んでいきます。ストーリーやテーマなんて小説にとっては大したものではないのだな、主体的な意志を持ち、一貫性があり、ぶれない揺るがない人間観こそフィクションではないのか、芸術や自然に触れて、移入したり共感したりすることができるというのは裏返せばリアリティの脆さなのではないか、などとふと考えたりします。
小説本文から一節ぬきだそうとしましたが、芋づるのように意識の流れが続いていくので、一部抜粋しても面白さが半減してしまうことに気づきました。
飽きっぽい、移り気、一貫性がない、ぶれる、というのは一般的にはマイナスな形容として使われてしまいますが、変化することによって躍動を求め続けているとも言えるかもしれません。「さっきまであんなに興奮していたのに、今はそんな気持ちもすっかり消えている・・・はぁ」と嘆く、そんなあなたに!!とってもオススメの本です。
タテ
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