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お客様からサルトルの『嘔吐』をお譲りいただきました!
この本を見ると今でも「うっ!」となります。(タイトルが『嘔吐』だけに!という最もしょーもないのが浮かんできましたがそのまま書きます)
先のことなんて考えないで遊び呆けていた学生時代の終わりの頃に、「あ、あれ、なんも考えてなかったわ・・・どうしよう・・・」となり、はじめて本を貪るように読んだり、映画を切実に求めました。そういった最初の本がぼくにとっては今回のサルトルやカミュ、ヘッセであり、映画はアメリカンニューシネマの作品たち(「イージーライダー」「バニシングポイント」「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て!」等)でした。(非常に月並みですが)
また60,70年代の学生運動に興味を持ったり、全共闘と三島の対談をみたり。
ここに横たわっているものは「生きるとは、それはどういうことか」という非常にシリアスで、また世代関係なくある時期に頭をもたげる問題でして、その頃はいっちょ前に額に皺を寄せたり、暗い顔ばかりしていましたが、今思えばあれはいったいなんだったんだろうというくらいさっぱり忘れております。そもそもなぜこの問題を考えるときには暗い顔をしなければならないのか?それはそういうときにはそういう顔をするものだと素朴に思っていたのです。他の顔を知りませんでした。
当時わたしは大学のゼミでは平和学を専攻しており、ゼミ生は年に二回のプレゼンのために(約40分くらい)環境問題、民族や宗教の問題、紛争・内戦、経済格差、やその他もろもろとにかく深刻にシリアスに取り組んでました。しかし彼らは深刻だったが真剣ではなかったと今では思います。語り口はみな一様に深刻でした。プレゼンをするときには、そのような語り口しか知らなかったのです。
あの頃、サルトルをどう読んでいたかまるで思い出せないし、『嘔吐』も中身はほとんど全部忘れてます。(ラストあたりで、some of these daysという曲を主人公のロカンタンが酒場で聞いていたところだけは覚えている)第一本当に読んだか怪しい。
あの頃【読んだ】のは世間に流布されている、すでにパッケージされている紋切り型の【実存主義、不条理のサルトルやカミュ】や【反体制としてのアメリカンニューシネマ】という受容の仕方の読書で、固定して安定した月並みなものでした。迎合しない!つもりが、しっかり安定した世界観を受け入れていたのです。
自ら作品固有の「いわく言い難さ」や「運動」を発見はできなかった。のではないかと思います。(今ならどう読めるのでしょうか。)
なので古本屋やどこかの本棚で『嘔吐』を見かけると「うっ!」と顔をしかめて歯を噛んでしまいます。みなさまにもそういった本はありますか?
タテ
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