昭和40年代・昭和50年代 古本、大量のお取引!森山大道、荒木経惟、平凡パンチ、週刊プレイボーイ、特撮ヒーロー、写真集、サブカルチャー本など
ある教会の前の、あそこ、名前を忘れたかそれとももともと知らないあの交差点を、渡りきったばかりのことだ。とつぜん、まだ十歩ほど先だろうか、逆方向から、ひとりの若い女がやってくるのを見る。とてもすばらしい服の女で、むこうも同時に、あるいはもっと前から、私を見ている。ほかのすべての通行人と反対に、頭をまっすぐに高くあげて進んでくる。とても華奢な体つきで、ほとんど地に足をつけずに歩いている。なにか目に見えない微笑がその顔にうかんでいるようでもある。
ブルトンは有無を言わさず惹きつけられ、共依存の交流を重ね、ふたりの関係をこう言います。
現実の前で、いま思えば狡猾な犬のようにナジャの足もとに寝そべっていた現実の前で、私たちは誰だったのだろう?いったいどんな緯度のもとで私たちは、あのように象徴の熱狂にとらわれ、類推の魔に身をまかせながら、おたがいのなかに最後のはたらきかけの相手を、奇妙な特別の関心の対象を見ることができたのだろう。いったいどういうわけで私たちは、不可思議な呆然自失状態のあとにのこされる短いあいまいな時間に、ふたりして、決定的に、あれほど遠く地上から投げ出されながらも、まだくすぶっている古ぼけた思想やだらだらとつづく生活の残骸の上で、信じられないほどに一致する視線のいくつかをかわすことができたのだろう?私は最初の日から最後の日まで、ナジャをひとりの自由な精霊としてとらえていた。つまり、ある種の魔術の行使によって一時的につなぎとめることはできても、服従させることはとても考えられないような、あの空気の精のひとりに似た何かとして。
ブルトンと一つ歳の違うジョルジュ・バタイユは『マダム・エドワルダ』という短編を書きました。主人公の男は娼婦エドワルダに稲妻を打たれたよう惹かれ、交わり、翻弄されていきます。エドワルダに聖なるものと穢れたものを見て、そして引きずりこまれていきます。
おれの生はおれがそれを欠くとき、はじめて意味を持つのだ。正気を失うという条件のもとに、わかる者はわかってくれよう、瀕死の人間はわかってくれよう…これこそは存在の姿である。理由もわからず、寒気で、震えつづけ…。無限の拡がりに、暗闇にとりまかれ、わざわざ、彼はそこに置かれているのだ…<知らされない>目的のために。
小説の世界だけでなく、フィルム・ノワールと呼ばれた1940年代から50年代のアメリカで製作された映画群にも、多くのファム・ファタールが登場します。
日本も欧米も関係なく、倦怠した主人公たちは、私が私ではなくなっていく瞬間を求めます。
パスカルは人間はじっとしていられない、気を紛らわす生き物だと言いました。人間は退屈する。しかし退屈するからこそ躍動を求める。環世界を組み替えて経めぐっていく。
パスカルの文章を読むにつけて、簡単にはこの退屈を奪わせないぞ!と私は思いました(笑) 退屈が飛躍の引き金だとしたら、安易に霧消させてたまるか!と。
今まで見ていた風景を相対化し変えてしまう、同じように生きれなくなってしまうもの、環世界を組み替えてしまうもの。それは個人の環世界によって、様々異なるでしょうが、さまざまなものの中でも芸術には特にその力があると私は思っています。
三回にわたって滔滔と好き勝手に書いてしまいましたが、くまねこ堂からみなさまの、知覚が、世界が違って見えてしまうなにかをお届けできたらなにより幸いです。
タテ
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