旧日本陸軍の軍医のご遺族の方より、数点の文書をお譲りいただきました!
先日、練馬区旭町のお宅に買取に行かせていただきました。ありがとうございます!
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先日、とある旧日本陸軍の軍医のご遺族の方より、数点の文書をお譲りいただきました。履歴書が大半でしたが、その中に興味深い書簡が一通含まれていました。東京にいる差出人軍医の人物から、おそらく彼の実家と思われる長崎へ送られたものです。ただ、この場では送受信者について詳しく記述することは差し控えます。何卒ご容赦ください。個人が特定されない形ではありますが、その書簡の内容を紹介します。
冒頭、(※1942~44年のいずれかの)3月6日付の書簡のため「漸く春めいて来ました」と時候の挨拶のように始まりますが、「決戦下各相の動きも必勝」へ向けた動きを続けている、との記述が続くように明白に戦時中であることがわかります。さらに読み進めていくと、戦時下の暮らしの窮乏がうかがえます。この書簡中には、「御承知の如く都市食糧逼迫は予想以上にして今昔の感に堪えません。主食は糠にしても食ひ延して居ります」とあるように、都市の食糧供給が思ったより深刻だと驚いている様子が見られます。
(※)東郷平八郎の肖像の5銭切手が使用されていますが、これが発行されていたのが1942年~44年ということから、年号を推定しました。
とはいえ、戦争は終わる気配がありません。この書簡でも、一層戦時色が濃くなっていく様子がうかがえます。まず、「今や都市疎開は切実の問題として浮び上つて来ました。強制命令に迄発展せんとして来て居ります」から「新学期から当分二人を御預り願え」ないか、と長崎の実家に宛てて書き送っていることが注目されます。それでは、差出人である軍医は、我が子2人の長崎への疎開がどれほどの期間になると考えていたのでしょうか。それについて軍医は続けて、「近く予想される異動時期には再び家を空けて単独出動せざる可らざる状勢にありますから思ひ切り二、三年間御膝下に委託致し度き所存ご賢察下さい」と述べています。この手紙の時期は明確な手がかりだけでいえば、1942年から1944年のどれかの3月6日ですが、食料供給の危機や長期の学童疎開が話題となっているわけですから、1942年とは考えにくいでしょう。仮に1943年だとしても、そこから思い切って2、3年は疎開させようという内容について、どのように考えるべきでしょうか。
当時の人々は1945年8月に戦争が終わることを知った上で生きていたわけではありません。この書簡が映し出しているのは、戦争終結の展望が見えない不安でしょうか。はたまた戦時が日常となってしまった日本人一般の感覚を表現したものでしょうか。もし後者の意味でとったならば、冒頭の時候の挨拶から間髪おかずに、各大臣らが決戦に向けて動いていると続いていることもあわせて、戦時の日常化を感じさせます。
▲佐伯矩編『戦時献立の栄養価』(国民精神総動員中央連盟、1940年1月)。国内の貧困問題と対外的な武力行使との関連性は、緒方貞子『満州事変』(岩波現代文庫、2011年、初出1966年)の分析が鋭い。
実は戦時中だからこそ、日常生活への関心が高まるという一面もあります。とりわけ、人々の身体を形づくっていく食の問題は、官民を挙げて盛んに研究されていました。ついさっき弊社書庫で発見したのですが、佐伯矩編『戦時献立の栄養価』(国民精神総動員中央連盟、1940年1月※)は、「平時の生活には……甚しきは毎日の食生活が安泰であり得ることにすら感謝の念を忘れ勝ち」な傾向があるとの指摘から始まっています。その上で、戦時だからこそ栄養効率の改善は単なる私生活の問題ではなく、「食の私的生活と公的生活を合致せしむる」必要があり、本来は平時から考えておくべきものであると、同書は説いています。
(※)編者の佐伯矩は、日本の栄養学の祖と称される人物で、この分野での国際連盟における活躍で知られています。
このように、「平時と戦時、公と私の境界線を考え直すべきだ!」との関心に基づいて栄養問題が議論されていたとすれば、上記で紹介した書簡で書かれていた「食糧逼迫」も、単なる物資欠乏の懸念以上の意味合いを含んでいるのではないでしょうか。まして軍医によって書かれたこともあわせて考えればなおさらです。戦時と日常が混ざり合った情景をこの書簡から感じたことは、あながち間違いではないのかもしれません。
小野坂
※誤字脱字につきましてお詫び申し上げます。後日の修正となり申し訳ございません(2019年11月2日)。
買取品目・ジャンル | 歴史資料 |
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商品名・作品名 | 佐伯矩編『戦時献立の栄養価』(国民精神総動員中央連盟、1940年1月) |
出張先・エリア | 練馬区旭町 |
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