ミシェル・フーコー思想集成をお譲りいただきました! フーコーのいう「本質的な知」とは⁉
学問のタコツボ化による弊害が指摘されて久しく、専門家に対する信頼が2011年3月11日の東日本大震災の原発事故をきっかけに大きく損なわれました。そうした傾向は、とりわけ、原子力や財政という分野で顕著のように思われます。どちらの分野も、厳密に、詳細に研究せんがため、研究対象を絞り込む必要があり、そうした絞り込みの手法を身に着けることが、研究者への道と考えられています。たしかに、特定の分野の考え方に習熟することは必要でしょう。しかし、そのようなトレーニングを続けた専門家が、他分野の研究とまったく切り結ぶところがなく、素人を議論から締め出すような形で、自身の考えをまとめるようになりがちなことは、重々注意しなくてはなりません。
専門家には得手不得手があり、彼らにおまかせしていると、往々にして非常に偏った視点で突進してしまいます。だからこそ、世紀の大発見に到達するかもしれませんが、一方で社会全体は方向感覚を失ってしまい、思わぬ大惨事を招く恐れもあります。
そのようなことをふと考えているとき、買取でお譲りいただいたご著書の中に、『ミシェル・フーコー思考集成IV 規範・社会 1971-1973』を見つけました。そこに所収されている「知識人は考えをまとめるには役立つが、知識人の知は労働者の知と比べれば部分的でしかない」(1973年)の一節を紹介したいと思います。
フーコーは「唯一重要な知は知識人、科学者の知」という見方は偏見であり、そうした知は部分的でしかないと喝破します。むしろ本質的な知は、当事者である労働者の側にあるというのです。それゆえ、フーコーがいうように、「労働者は考える、知っている、理性を働かせ、計算する。長い間、彼らは座る権利を要求し続け、獲得」したことを思い起す必要があります。
その一方でフーコーは、労働者の側から勝利を手放してしまった歴史にも目を向けています。労働組合が組織化されていくにつれ、組合指導者におまかせするような組織運営がなされ、個々の労働者が自己の体験に基づいて考え、行動することをやめてしまったことが、決定的な勝利を得られない原因だというのです。組合指導者や団体交渉のプロかもしれませんが、能動的な組合員を背景に持たない組合指導者など、経営者からすれば大して怖くありません。こうした構図は、様々な社会問題の現状を考える上で参考になり得るでしょう。
喫緊の事例を挙げれば、コロナウイルスの蔓延が懸念されますが、この問題は、ウイルスそのものを扱う医学だけでは対処できないかもしれません。たとえば、公衆衛生の財源や経済活動に関する知見、さらには細菌兵器をめぐる安全保障といった分野の視点を総動員して、防疫に取り組んでいかなくてはならないと思われます。
しかし、タコツボ化の打破は専門家自身にはなし得ないので、私たちの生活感覚を基にして、あるいはなんとなく感じた不安を軽視することなく、声を上げていく必要があります。専門家におまかせ、というわけにはいきません。個別の分野に限られた詳細な知識を、どのように他分野との関りの中で開いていくのか、その過程で互いに影響を及ぼしあって、新たな知見を生み出していくのか、そのためのきっかけを私たちが作り出さなくてはなりません。ここに問題解決の糸口があります。それは何も大それたことではなく、私たち一人ひとりの暮らし方の変化が、結果として社会の変革となる過程への第一歩です。そのように考えれば、日々の暮らしがより一層興味深く見えてくるのではないでしょうか。
小野坂
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