岩波文庫化記念~グレゴリー・ベイトソン『精神と自然――生きた世界の認識論』佐藤良明訳(思索社、1982年)について
いつもくまねこ堂ブログをお読みいただきありがとうございます。
そういえば去年、情報科学の分野の書籍ということで、ノーバート・ウィーナー『サイバネティックスはいかにして生まれたか』鎮目恭夫訳(みすず書房、1956年)を紹介しました。
※サイバネティックス創始者のノーバート・ウィーナーの自叙伝が入荷しました!(くまねこ堂古書ブログ、2021年2月2日)
https://www.kumanekodou.com/26468/
今回は、その過去記事の続きとして、最近岩波文庫に収められた以下の本を紹介します。なぜ、その続きになるのかというと、手元にあった今回取り上げる本も、サイバネティックスという、機械の通信と制御に関する研究分野に関係があるからです。
上掲の画像は、グレゴリー・ベイトソン『精神と自然――生きた世界の認識論』佐藤良明訳(思索社、1982年)です。
グレゴリー・ベイトソン(1904-1980)は、イギリス生まれ、アメリカの文化人類学、精神医学「など」の研究者です。ベイトソンが手がけた研究領域はきわめて広範なものです。それゆえ、既存の分野の名を用いて、彼を「~~の専門家」と紹介するのは困難でありましょう。
さて、本書の副題は「生きた世界の認識論」とあります。このテーマについて、一人の人間という観点では、生きている以上は、時間の経過とともに変化するということが考えられます。しかも、そのような生きて変化する人びと同士の関係性、という方向に視点を広げてみて考える必要も出てくるでしょう。そうなると、キーワードとして「差異」が浮上してくるわけです。
本書92頁をみますと、ベイトソンは「差異(ちがい)を産むことによって情報となる差異をつくり出す」と述べています。これは、”The difference which becomes information by making a difference.”の訳文との注記があります。「差異(ちがい)」がサイバネティックスの創始にとって重要であったことは、前回紹介したウィーナーの中国滞在時の体験によっても首肯されることだと思われます。
それでは、「差異(ちがい)」はどのようにして生じるのか。ベイトソンは少なくとも2つの何かが必要だといいます。これに続けて次のように展開します。
「差異の知らせ(これこそが情報に他ならない)を産み出すには、その相互関係の中に差異が内在するような二つの存在者(実在者であれ、想像の産物であれ)がなくてはならない。そしてまた、その差異の知らせが、脳のごとき情報処理体(コンピューターも含むかもしれない)の内部で、一つの差異として表象されてくるようになっていなくてはならない」
差異を持っている二者が存在して、なおかつその差異を認識できたとき、という条件を満たしてはじめて、情報が生まれるというのです。したがって、このブログも、読者の皆さまの存在なくしては、情報にはなり得ないということです。ここまでお読みくださった方に、改めて感謝申し上げます。
しかし、差異を持っている二者同士のやり取りが情報を生むといわれても、実感できない方もおられるかもしれません。そもそも差異ゆえに、互いにわかり合えないとか、情報を共有できないとか、そうした疑念が浮かぶのも、日常感覚からすれば当然かもしれません。あるいは、情報とはいっても、もともと知っているから認識できるのであって、もともと知らないことが他人の話に出てきても聞き取ることすらできない、というのは、私を含め読者の皆さまのうち多くの方が体験したことではないでしょうか。
その疑問を考える際に重要と思われる文章が、今回紹介しましたベイトソン『精神と自然』のウィーナー登場部分とその周辺にありました(159-161頁)。下記引用はその一部です。〔 〕内は引用者によります。
「ネコの発するメッセージは絡まり合って、複雑な網の目を形成している。〔中略〕われわれ人間にとっては、〔ネコが送るネコ自身についての無数の〕個々の信号は悲劇的に縺れ合っている。永年の訓練を経た行動生物学者ですら、面食らうことがしばしばである。にもかかわらず人間は、ネコとの間に起きていることがまるでわかってでもいるかのように、メッセージの断片をつなぎ合わせて、ネコのしぐさの”解読”をやってのける。人間は仮説を立てる。そしてその仮説を、ネコの行動のうち比較的わかりやすいものに照らし合わせながら、常に確証したり修正したりしていくのである。
異種間のコミュニケーションは、いかなる場合も、自分の側でつくり上げたコンテキストを互いに修正し合っていく、学習のコンテキストの連続である」
もし「学習」と聞いて、答えの決まった内容の一方的な受け渡しを想像するなら、上記のベイトソンのメッセージに面食らうしかありません。ベイトソンのいうように「自分の側でつくり上げたコンテキストを互いに修正し合っていく」のが「学習」であり、しかもその連続がコミュニケーションだとするなら、今までコミュニケーションだと思っていたこととは何だったのか。こういう問いから考え始めることで、「差異(ちがい)」から生まれた、正しい意味での情報に近づくことができるかもしれません。
なお、この話題における「差異(ちがい)」について、ややこしい話をします。それは、「学習のコンテキスト」について、抽象性など一定の基準よる階層を設けるのかどうかで、そこに階層を認めるベイトソンと、階層を認めないウィーナーとで、決定的な差異があるということです。これを情報にできるがどうかは、皆さま次第です(すみませんが、私にはその意志がないわけではないんですが、能力がないんです…)。
くまねこ堂では、現在入手が難しい研究書など、積極的に扱っております(いつの間にか文庫化されることがあります)。古書ブログでは、たまたま同時に入荷したいくつかの書籍の組み合わせによって、期せずして生まれた「情報」をお伝えしていきたいと思います。
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小野坂