蓮沼門三『天分に生きる』(修養団出版部、1966年)が入荷しました~財界の重鎮、渋沢栄一と修養団
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ところで、渋沢栄一(1840-1931)といえば、ビジネス書などで繰り返し特集されてきたこともあり、名前だけなら知っているという方も多いでのはないでしょうか。
▲渋沢栄一(ウィキペディアより)
渋沢は、明治、大正、昭和初期にかけて活躍した実業家として知られており、近代日本史を語る上で欠かせない人物です。とりわけ、狭い意味の経済団体に限らず、福祉、教育、国際交流など幅広い団体の設立や後援に携わった渋沢の一連の活動は驚くべきものがあります。それは、ウィキペディアの項目をチラ見しただけでも気づくはずです。
▲蓮沼門三『天分に生きる』(修養団出版部、1966年)
そこで今回は、ある渋沢と関わりのある社会教育団体の指導者の回想録を紹介します。その団体とは、明治末期(1906年)に設立され現在も公益財団法人として存続している、修養団です。修養団の歴史には、新入社員研修などの教育事業はもちろん、右翼運動の伝統があります。設立者は蓮沼門三という福島県出身の小学校の教師。小学校の教師にもかかわらず彼は、小学校教育が国内の風紀の乱れの原因となっていると考え、教育改革の必要を訴えるほどの強い保守思想を持った人物でした。
その右に傾いた気合は、財界の著名人渋沢に対して、修養団の後援会長への就任を依頼するという行動へと蓮沼を駆り立てました。もっとも、義務教育を終えた生徒は、労働者になるわけですから、教育団体の指導者が財界の大物の意向をうかがったり、その庇護を求めたりするのは、定石通りともいえます。そのような教育団体と財界との付き合いは、御国の経済のために労働者を育てるという話で一致することになります。修養団が教育団体とも右翼団体ともつかない微妙な性格を持っているのは、蓮沼のパーソナリティと相まって、こういう財界との付き合い方に原因があり、その可能性は濃厚といえそうです。ちょうど現在でも、財界と右翼団体との結びつきが話題になることがありますが、蓮沼率いる修養団もそのような性格がありました。
しかし、渋沢の修養団後援会長就任に向けた、蓮沼の直談判の試みは三度断られました。蓮沼は渋沢に会うことすらできなかったのです。それでもへこたれない蓮沼は長文の手紙を渋沢に差し出しましたが、意外にもこれに対して渋沢本人からの返書があったというのです。そして渋沢は、1925年から没年である1931年まで、修養団後援会長を務めることになります。そのあたりのやり取りが、蓮沼の回想録『天分に生きる』176頁以降に書かれています。
▲蓮沼門三『天分に生きる』176頁
こうした教育系の右翼団体と財界の大立者との関係は、専門的に研究していくとなると、どういった分野で扱われるのでしょうか。もちろん右翼運動史という観点もあり得ます。実際、修養団は昭和の戦争で政府に積極的に協力していたわけで、この歴史を無視することはできません。ただし、そこから遡って大正期の政治・経済との関わりで修養団をみていくなら、社会主義とは異なる形で社会福祉を追求した歴史にふれることになります。おそらくはこの文脈で、蓮沼が主要な登場人物の一人として浮かび上がってくるはずです。その協力者として開明的な経営者として知られる渋沢の名が挙がるのも、当然といえば当然といったところでしょう。
つまり、大正期の非社会主義的潮流に基づく福祉論から昭和の戦争協力へ、という歴史の展開をみていく上で修養団は恰好の事例なのです。さらには、戦時期の労働強化の経験が、高度経済成長期のモーレツ社員をどう生み出したか?という論点もあります。実は修養団は、滝つぼでの禊研修といった風変りな(平成生まれにとっては受け入れがたい)新入社員研修を各社に提供することで知られています。とすると、モーレツ社員の並走者として修養団というこれまた歴史あるモーレツ右翼団体がいたこと、それが日本の高度成長にどれほど貢献したのか、といった点は戦後日本を理解する上で考えなくてはならない論点なのではないでしょうか。
小野坂