長谷川雄一編『大正期日本のアメリカ認識』(慶應義塾大学出版会、2001年)所収の、庄司潤一郎「近衛文麿の対米観」を紹介します
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以前、学術書の買取に際して入荷しました、加藤陽子『戦争の論理 日露戦争から太平洋戦争まで』(勁草書房、2005年6月)を紹介しました。そこでは満州事変勃発直後の政軍関係にふれています。今回のそれとの関連で入荷、あるいはすでにAmazon上に出品している書籍についてもふれていきます。
素人の思いつきでも、昭和の戦争について考えるためには、昭和期の政治指導者がその前の時代に、国際関係についてどのように考えていたのか知る必要を感じます。むろん、その程度の思いつきは、すでに研究書がある場合が多いものです。
上掲画像は、長谷川雄一編『大正期日本のアメリカ認識』(慶應義塾大学出版会、2001年)です。その第1章は、庄司潤一郎「近衛文麿の対米観――『英米本位の平和主義を排す』を中心として」です。庄司氏は防衛庁防衛研究所(当時)所属の軍事史および、昭和期の対外認識の専門家です。加藤氏の『戦争の論理』に続く読書として、この庄司論文をおすすめすべく、以下紹介していきたいと思います。
というのも、昭和の戦争を当事者の論理まで含めて考えるにあたっては、1937年の日中戦争勃発時の首相である近衛文麿の対外認識を検討することが欠かせません。いうまでもなく、庄司論文の副題にある「英米本位の平和主義を排す」(以下、「英米論文」)とは、第一次世界大戦の講和会議である1919年のパリ講和会議に日本全権団の随員として列席した近衛文麿が、渡航前に『日本及日本人』(1918年11月3日)に発表した論文のタイトルです。若き日の近衛は、第一次世界大戦の講和が英米中心の不平等なものとなるであろうと予見したのです。以後の近衛は、国際関係を「持てる国」と「持たざる国」とに分け、植民地の再分割を主張するようになっていきます。
▲「危険な落とし穴」に私たちもハマるかもしれない。30頁。
日中戦争の勃発、その拡大、そして日米戦争への波及に関して、この間三度にわたって首相を務めた近衛の若き日の認識は、現代人として追跡に値する文章なのではないでしょうか。まずは、近衛の認識を理解するために、「英米論文」しばしば同情を交えながら読むということも一手です。むろんこの「同情読み」は、近衛を免責するための行為ではなく、近衛が陥った誤りを追体験し、ひるがえって私たちの国際認識にも同様の過ちはないか、と探るための読書です。むしろ、第一次世界大戦の衝撃を自分なりに受け止めようとした近衛より、現在の私たちの方が幼稚な国際認識しか持ち得ていない可能性だってあります。歴史に学ぶ、とは何をすることなのでしょうか。それは、現在の後知恵(しばしば受け売りで)で当時の責任者を断罪して済むものではなく、そうした人々の苦悩を追体験する自分なりの読書を伴う道程なのだと、私は思います。
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小野坂