夏の光と影―つげ義春「夢の散歩」紹介―
くまねこ堂では現在スタッフを募集中です。このブログは、スタッフそれぞれの観点から、入荷した書籍や骨董を紹介するものです。どうぞよろしくお願いいたします。
ところで、毎日よく晴れて暑いですね。皆さまお元気でしょうか。
夏の昼間、外へ出ると、まっすぐな日差しが白く眩しいです。そうして白く照らされて、普段よく見慣れた町も、どこかいつもと違うような、そんな不安を感じる時があります。蝉の声もどうしてか聞こえず、しんとしてひたすら暑さと白さが占めて、時が止まったかのようです。
そんな夏の白さを感じた時、思い出す漫画があります。つげ義春の「夢の散歩」(初出・1972年4月『夜行№1』)です。以下の『つげ義春自選集① ねじ式』(アイランドコミックスPRIMO・2002年・嶋中書店)などに収録されています。
「夢の散歩」のあらすじを紹介しましょう。男が、夏の暑い日、道路を渡ろうとすると警察官に止められ、ぬかるんだ道を行く羽目になります。そして同じように道路を渡れなかった子連れの奥さんと出会いますが、二人はまた別々の道を行きます。そんなとても短い話です。
感じられるのは、不条理です。警官は、道を渡ろうとする男と奥さんを注意するが、なぜ車の通る気配もない道路を横断していけないのかは、わからない。仕方なしに回り道をすると、ひどいぬかるみに足をとられる。理屈で理解できない不幸や困難に、偶然に出くわしてしまうのです。
そしてまた、この作品を読むと、日常と同居する陰が思い出されます。男と奥さんがはまったその泥は、日陰の湿り気が作り出したものです。そんな陰は、強い白い光と同時に存在するものであるはずです。眩しい光は、男と奥さんと子供が渡ろうとした日向の道路の側にありましたが、規則だからという理由だけで警察がそこから彼らを追い出すと、彼らは道を外れて日陰に行かざるを得なくなり、思いもよらぬ泥にはまる。そこで男と奥さんは偶然にも出会うが、また別れてそれぞれの道を歩いていく。必然性なく全ては進んでいくし、普段の何気ない生活のそばには陰があり、そこに思わず立ち入ってしまうこともあるのだということが、感じられます。
加えて、光が影を作るのは、道だけではないのです。日光によって、人の顔にも影ができます。「夢の散歩」を読むと、そこに出てくる人は、主人公の男以外は皆、顔に日傘や帽子の濃い影があるのに気づきます。男もまた、泥濘で奥さんと会った時には真っ黒な影です。それは、人は皆、名前や肩書を持って一貫して生きているように思っているけれど、ある瞬間、誰かにとっては、「誰でもない」人間であり得ること、また人は、社会や生活を負った普段の自分とは別の自分になってしまうことがあること、を示しているでしょう。男にとって、警官も奥さんも子供も見知らぬ他人であり、その他人である奥さんに男は衝動的な行動をしました。
とはいえ、少し違う形ではありますが、上記のような出来事は私達が毎日繰り返していることです。例えば、通勤通学の満員電車で、あまりに多くの人と押し合い圧し合いすれ違いしながら、誰の顔も覚えていないし、誰にも覚えられてもいない。偶然に、時間と空間を共有しては離れていく。また、私達は、自分を制御できずに落ち込んだり、怒ったり、暴れそうになったりすることもある。その理屈をつけられない感情のほとばしりを受ける側は、なぜそうなるのか理解できないままに巻き込まれる。たまたま、一緒にいた人がそれを被らなければならなくなる。これらのことは、ありふれた話です。
「夢の散歩」の世界は、「夢」として非現実的であったけど、思えば私達が生きている普段に近いでしょう。毎日、地に足つけて、馴染み深い世界で生活しているように私達は思い込んでいます。しかし、世界はいつでも、不条理な顔を私達に向けようとしています。「夢の散歩」はそのことを表現しているように思われました。
昼の照りつける太陽の下、眩しい町を歩く時、私は「夢の散歩」と重ねて、堅固な生活世界が錯覚かもしれないこと、あと半歩踏み出した時には別の理解しがたいものになっているかもしれないこと、を感じているようです。
以上、最近の猛暑から連想をもとに、つげ義春「夢の散歩」をご紹介しました。実のところ自分は、つげ義春に関して全くのにわかであり、恐れ多くもこのブログを書いています。ただ、作品は受け手の反応によって成立する、と考えるなら、今回のような蛮勇も若干は許されるのではないか、と思っています。皆様も作品をお読みになり、それぞれに様々思いを巡らせてくださったら嬉しいです。
本日もお読みくださりありがとうございました。
コトー
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