ミシェル・フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』(新潮社、1977年)を紹介します
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ところで、ミシェル・フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』(新潮社、1977年)を検品していたところ、たまたま下記の文章に目が止まりました。「監獄とは」から始まる一文もあり、本書を読む際の重要な部分だと思われますので、それを引用します。
「監獄のもつ自明の理は、個々人を変容する装置という、仮定されるか要求されるかの差はあれ、その役割にも根拠をおいている。どうして監獄が即座に受け入れられないわけがあろう、というのは人を閉じ込めて矯正し従順にしつつ、それは社会全体のなかで見出されるすべての機構を、場合によってはいくらか強調しつつも再生産するにすぎないからである。監獄とは、いささか厳重な兵営、寛大さの欠ける学校、陰鬱な工場だが、極端な場合でも質的な差異は何ら存在しない。」(232頁)。
こういうわけですから、本書が単に「監獄」という国家機構の一つについて詳しく述べたものではないことは明らかです。監視と処罰を実行する国家機関の「監獄」において顕在化する事態や、それを生み出す条件といったことは、フーコーによれば「いささか厳重な兵営、寛大さの欠ける学校、陰鬱な工場」と例示されたような、私たちの社会のいたるところで発見されることになります。そして、正真正銘の監獄だろうと、そうではない組織であろうと、それらに「質的な差異は何ら存在しない」のです。したがって、「監獄」は「社会全体のなかで見出されるすべての機構を、場合によってはいくらか強調しつつも再生産するにすぎない」のであれば、問題は「監獄」にあるのではなく、私たちの社会全体の方にあるわけです。
このようなフーコーの観点に関し、資本主義と不可分の「生権力」という概念や、労働組合運動における専門知と当事者の経験との関係性について、過去に入荷した本の紹介もあわせてお読みくださると幸いです。
※ミシェル・フーコー『性の歴史I 知への意志』渡辺守章訳(新潮社、1986年)が入荷しました!
https://www.kumanekodou.com/26622/
※ミシェル・フーコー思想集成をお譲りいただきました! フーコーのいう「本質的な知」とは⁉
https://www.kumanekodou.com/24431/
小野坂
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