山本四郎編『第二次大隈内閣関係史料』(京都女子大学、1979年)、同編『寺内正毅日記――一九〇〇~一九一八』(京都女子大学、1980年)が入荷しました
以前の投稿で、外務省編『日本外交年表竝主要文書』全2巻(原書房、1965-66年)を紹介しましたが(https://www.kumanekodou.com/32493/)、関連で次の史料集を取り上げます。
山本四郎編『第二次大隈内閣関係史料』(京都女子大学、1979年)、同編『寺内正毅日記――一九〇〇~一九一八』(京都女子大学、1980年)です。前者は「京都女子大学叢刊」第4号、後者はその第5号にあたります。
第二次大隈内閣は、自由民権運動の大物指導者の一人で早稲田大学総長として著名な大隈重信を首相に据え、1914年(大正3年)4月16日から1916年10月9日まで存在した内閣です。寺内正毅とは初代朝鮮総督を経て第二次大隈内閣退陣後に組閣した陸軍軍人の首相です。寺内内閣期は1916年10月9日から1918年9月29日、その次の内閣は日本初の本格的な政党内閣である原敬内閣(与党は立憲政友会)となります。原敬は日清戦争(1894-95年)時の外務省通商局長の経験を持ち、後に立憲政友会に入り頭角を現し、1914年には正式に第3代目の政友会総会に就任しています。
このように大正期の政治は、異なる出自や経歴を持つ政治指導者が目まぐるしく内閣を組織する「転換期」の時代でした。こうした国内政治の激動だけでなく、この時期は国際政治も流動的で、二重の「転換期」でした(たとえば、岡義武『転換期の大正』という通史があります)。1914年4月の第二次大隈内閣成立から1918年9月の原内閣成立までの間、日本外交は1914年8月に勃発した第一次世界大戦や1917年のロシア革命への対応を迫られることになりました。
第二次大隈内閣は第一次世界大戦勃発を受け、在中国のドイツ権益を狙って出兵し、中国には「21カ条要求」を突きつけるなど、強硬な対中外交を展開しました。ちなみに大隈内閣の外相は日清戦争時の外務省政務局長の加藤高明で、原敬の同僚だった人物です。彼も後に憲政会という政党を率いて首相となります。『第二次大隈内閣関係史料』には大隈内閣の外交政策の決定に関し、省庁の公文書には残らない元老(明治維新の指導者、首相経験者ら)とのやり取りを含む貴重な文書が採録されています。
後継の寺内内閣はロシア革命に干渉すべくシベリア出兵を断行しました。寺内内閣の対露政策については、『寺内正毅日記』を確認すると、1918年3月ごろから慌ただしく動き始めた様子がみられます。個人の日記なので断片的な記述が多く、本書だけ読んでも事情がつかめないかもしれませんが、そんなときは『日本外交年表竝主要文書』の登場です。
対中関係、対露関係の激動とあわせ、第一次世界大戦後はアメリカの東アジアへの関与が活発化します。こうした国際関係の変動に対し、1918年9月29日に成立した原敬内閣は、日米協調を政党内閣の外交政策として定式化しました。原内閣の重要性は、第一次世界大戦後の状況を受けて民主化と国際協調の新たな結びつきを生み出したところにあります。それでは、政党内閣と日米協調といった国内・外交両面のセットをつくり上げた原内閣は、どのような政権だったのでしょうか。この点については、もし『原敬日記』が入荷したらこのブログに投稿したいと考えています。
小野坂
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