南方熊楠、チャリネに雇われる
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2014/1/26の記事で、明治19年(1886)にイタリアから来日して
日本に大反響を巻き起こしたサーカス団、チャリネ一座の浮世絵をご紹介しましたけれども。
今日、「明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか」(著:大島幹雄/祥伝社)
という本を読んでいたら、
なんと南方熊楠が一時期このチャリネ一座に雇われていたとの記述があり、
びっくりしてしまいました
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外国から来たサーカス団が帰国するとき、日本の芸人を何人か雇い入れることは
たびたびあったのだが、このチャリネサーカスも、日本で曲馬師の川村駒次郎、
足芸の長谷川長次郎、豊岡新吉、象使いの百済与一(くだらよいち)の
4人を雇い入れ、南米公園に同伴している。
さらに西インド諸島を巡回中にチャリネサーカスは、キューバを放浪中の南方熊楠を
雇っているという話も残っている。
熊楠は、1891(明治24)年10月から12月にかけての二カ月あまり、
百済与一の助手として働いていた。熊楠は、象が載る碁盤を出す係をしていたらしい。
そのほかにも得意の語学を生かし、団員のために手紙の代筆などもしてやって
重宝されたという。
熊楠が柳田國男に宛てた手紙に、こんな一節がある。
「明治二十四、五年ごろ、小生キュバ島その他にて落魄(らくはく)して
曲馬師の巣中に寄生しことあり。
小生は各国の語を早く解し、ちょっと埒の明きやすき男で、郷に入れば郷に従えとあきらめ、
曲馬中の芸女のために多くの男より来る艶簡(えんかん)を読みやり、
また返事をその女の思うままにかきやり、書いたあとで講釈し聞かせ、
大いに有難がられ、少々の銭を貰い、それで学問をつづけたること久かりし」
(抜粋)
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それとこの本を読んで初めて知ったのですが、
当時(幕末から明治にかけて)の日本の軽業師・曲芸師・手品師たちの技は、
欧米のサーカス芸を凌駕する並はずれたものであり、
彼らが披露した日本古来の伝統芸は当時の欧米の芸人たちに強い衝撃を与え、
様々な影響を与えたそうです。
すごかったんですねえ、、、
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