「安田靫彦展」(東京国立近代美術館)に行ってきました
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いいですよねえ~このチラシ!
「いざ、竹橋」「待ちかねたぞ」というセリフを義経と頼朝に言わせるあたり、
ナイスセンスでございます(´∀`) (竹橋は、国立近代美術館がある場所です。)
このチラシにも使われている「黄瀬川陣」が、やはり白眉でございました。
大きな屏風の中で、非常にシンプルな構成ながら
緊張感のある二人の関係の距離感を感じさせ、その後の2人の運命を予感させて
胸に迫るものがありました。
(以下、展覧会図録からご紹介させて頂きます)
靫彦自身の解説によれば、義経には前途の運命を予感させる寂しさを、
頼朝には明るい将来を背負った強さや華々しさをあらわそうとしたのだそうです。
「黄瀬川陣」安田靫彦/1940(昭和15)年/東京国立近代美術館/重要文化財
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見た瞬間、画面全体に沈鬱な悲しみが覆っていました。
タイトルを見ると「遣唐使」、そうか・・・
遣唐使に選ばれることはきっと非常に名誉なことであったと思いますが、
奈良時代に中国に渡るというのは命がけの航海が伴いますし、
しかも長期間中国に滞在しなければならなかったでしょうから、
家族からしてみれば悲しい別れ以外の何物でもないでしょうね・・
そんな家族の思いに寄り添ってこの絵を描いた靫彦さんは、
きっと優しい人だったんだろうなあ、と想像してしまいました。
ところでこの絵は、靫彦16歳の時の作品なんです!
歴史画で有名だった小堀鞆音(1864 – 1931年)に弟子入りして
絵の勉強を始めたのは、靫彦少年が14歳のときでした。
わずか2年でこんなに描けちゃうんですね、すごいですねえ、、、
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シンプルな絵ですが、可愛らしかったので載せてみました(*^^*)
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「鴨川夜情」安田靫彦/1932(昭和7)年/茨城県近代美術館
奥が青木木米(1767-1833年)、手前左が頼山陽(1781-1832年)、
手前右が田能村竹田(1777-1835年)。
江戸時代でも指折りの文化人3人が、鴨川で涼みながらゆったりと語り合う様子は、
気心の知れた友同士で過ごす至福の時が感じられ、とても素敵でした。
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「今村紫紅像」安田靫彦/1916(大正5)年/東京国立博物館
盟友であった今村紫紅(1880年 – 1916年)の肖像画。
わずか35歳で夭折してしまった紫紅の、追悼展覧会のために描かれました。
紫紅の生前の精悍さと、盟友の早すぎる夭折に対する悲しみが
静かに伝わってくる絵でした。
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最後に、靫彦の芸術について語った速水御舟(1894-1935年)の文章を
ぜひご紹介させて頂きたいと思います。
「安田さんの芸術については事新しく述べるまでもないが、一言にして尽すと、
安田さんの芸術の特色はあの馥郁たる匂ひにあると思ふ。
梅の花か何か非常にいゝ匂ひが漂つてくる。それは何処に咲いているのか、
ハツキリ所在はわからないが実に馥郁としてゐる。安田さんの人格にも
さういふ感じがあるが、作品には特にその感が深い。
尤もこちらが粗暴な気持であつたりすると、安田さんの芸術は手頼りないものに
感じられるかも知れない。そんな人には、花の匂ひもわからず、
安田さんの姿も見えないだらう。
つまり粗笨(そほん)な人が安田さんと相撲をとつた場合、
負かすことが出来るやうな気がするのと同様に、
安田さんの芸術から馥郁たる匂ひを感じることの出来ない人は、
その心に持合わせのものが何か足りないのではないかと思ふ。
考えてみると、あゝいふ芳香を放つ芸術は現代はもとより古人のふちにも
極めて稀れであらう。」
(速水御舟「安田靫彦論」『美術評論』四巻一号、1935年1月)
なるほど・・・
実際に展覧会を見に行って、なんとなく思い当たるふしがありまして、
御舟の言葉はストンと胸に落ちました。
というわけで、もし安田靫彦展に足を運ばれる際には、
ぜひ入り口で心を安らかにしてから
会場にお入りいただければと思います
ところで、安田靫彦(1884-1978年)は幼少の頃から病弱で、
若いころ長い療養生活を強いられたりしたにもかかわらず
94歳という長寿を全うし、その画業は8明治・大正・昭和にかけて
80年にも渡ったそうです!本当に素晴らしいことですね。
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